鎮座の由来


 大和国(奈良県)宇多郡榛原に中臣連第12代宗信という人が住んでいました。中臣連はもともと、古代朝廷の祭祀を司っていた家系であり、宗信は敬神の心あつく、諸国の神社を参拝しました。
 その折、筑前国(福岡県)の箱碕八幡宮に参拝しました。そして、八幡大神の御分霊を奉じて北国を巡り、越後国(新潟県)の勝木村の大西屋・加藤小門太(小左衛門宅)に宿泊しました。
 その夜、八幡大神が夢の中で、示現され、
「この地に鎮座し、村人と海上の安全を守護してつかわす」
と告げられました。
 そこで、村人の代表7人が相談して、宗信を祭主として、筥堅山に鎮座されることになりました。今から1000年以上も前の延喜21年(921)のことです。
 宗信の子孫は代々、太夫(神職)をつとめ、現在の増子宮司は第55代にあたります。
 後三年の役(1083〜87)の際、源義家が奥州藤原氏を討伐に向かう際、
この筥堅山を通過して、勝木から碁石に抜ける坂で休みました。その際、筥堅山の方から不思議な音楽と声が聞こえ、どうしても前に進めませんでした。
 そこで、家来に筥堅山に登らせたところ、八幡宮に小祠が見つかりました。
義家は早速増子神主を呼び、戦勝祈願のために、稚児舞を奉納しました。それ以後、筥堅山に登る坂を稚児の坂と呼び、秋の大祭には、この稚児舞が奉納されるようになりました。
 そして、後三年の役に勝った義家は祈願成就したため、帰路に再び筥堅八幡宮に参拝して、矢除の守護一体を奉納したといわれています。


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